4 子規と小林小太郎〜 伊予松山藩の英学徒たち〜
1 はじめに                                  

 類稀な文学者である子規・正岡常規(以下子規とする)は慶応三年(一八六七)九月に生まれ、明治一六年(一八八三)六月松山中学を中退して上京するまでの一七年間を明治新政府から「朝敵」の汚名を受けた旧伊予松山藩で多感な少年時代を送る。      
 膨大な子規関係の研究を卑見するに、少年子規を取り巻く環境は「御一新」とは程遠いむしろ新時代と隔絶したものであったと断言しても過言ではなかろう。四民平等の学制改制改革とはいえ、子規の学んだ勝山学校は「士族の子供のみが集まったのである」と影山昇『少年正岡子規−人間形成と学校教育−』は記している。更に子規やその仲間を直接教授し人間的影響を与えた教育環境で特筆すべきは、旧松山藩の最高の知識人を師と仰ぎ指導を受けたことである。漢詩・漢文については母方の祖父大原観山、武智五友、川東静渓、浦屋雲林、和歌については井手真棹を挙げることができよう。他方「文明開化」に対応する欧米文化の大波は伊予松山には押し寄せておらず、伝統的文化の中で子規は養育されてきたと云える。                                 
 子規の「春や昔十五万石の城下かな」の郷愁と司馬遼太郎の『坂の上の雲』の青春群像を通して伊予松山藩から松山市への時代的変革を捉えることが正しいのであろうか。少年子規らの生き方が特殊であって、旧士族、素封家、旧里正、町民・農村有力層の子弟の歩んだ坂道の方が一般的であったといえないだろうか。                
 小論では同じ松山藩士族の子弟ではあるが、「坂の上の雲」を追い求めながら子規とは対蹠的な人生を送った小林小太郎なる愛媛県下では未紹介の人物を中心に伊予松山藩の英語青年群像を描くことにより「英語が苦手な」子規その人に迫ってみたい。                                             

2 小林小太郎の英語修業
                          
〔来歴〕                                    
 小林小太郎は嘉永元年(一八四八)一月豊前守本多正寛候の藩邸に生まれる。父儀行は伊予松山藩で藩校明教館出仕を経て当時は江戸詰めであった。松山藩に於ける小林姓は『松山古今役録』(文化十二年・一八一五頃)では四家あり、うち三家は百石以上の家柄である。                                     
@八代 百廿石 小林斎宮/初代仁右衛門、於掛川出、十二石五斗大小姓、後於松山新  知百石馬廻                                 
A六代 二百八十石 小林八之進/初代金弥、小林金左衛門三男、正徳二年被召出、十  五石小姓、後定英公付五石加増                        
B四代 百石 小林宗蔵/初代清兵衛、小林仁左衛門二男、元禄十三年被召出、十五石  定英公付小姓、後五石加増、享保六年新知百石側役、後留守居番頭    
C七代 六十俵 小林新五郎/初代長兵衛、寛文年中足軽抱、五代目勘定、文化十一年  六十俵、文政三年大小姓格                           

 『松山古今役録』『松山歴俸略記』(弘化年間・一八四四〜四七)以降の『松山武鑑』(嘉永五年・一八五二)『幕末松山藩御役録』(安政六年・一八五九)には小林斎宮を除く三家となっている。明治から大正時代にかけての愛媛財界の重鎮小林信近は小林八之進の養子であり、他の二家には小林儀行に該当する人物はいない。尚『松山市史料集近世編2』中「文久二壬戌(一八六二)年改之 松山御家中古今屋舖附」記載の家屋調査でも小林儀行或いは小太郎の記載はなく、従って現存する松山藩家中文書では小林儀行或いは小太郎の確認が出来ない。                  

 嘉永六・七年(一八五四・五五)ペリー来航に伴い藩では和蘭式の銃隊を編成することになり、砲術高島(秋帆)流の下曽根金三郎(一八〇九〜七四)の門人小林大助を教授方として召し抱えている。実子小太郎が伊予松山藩の藩邸でなく豊前守本多正寛候の藩邸で誕生しており、松山藩歴代の藩士とは考えにくい。駿河田中藩出身の小林大助が請われて松山藩に登用され、儀行と改名し、藩校明教館で砲術の実地訓練教育後江戸詰めにて沿岸警備に備えたというのが歴史的事実ではなかったか。小林大助に関する松山藩の記録は卑見では皆無ではないが、詳細は今後の研究を俟ちたい。                                                    

 〔少年時代〕                                  
万延元年(一八六〇)小太郎一二歳で藩命により英国公使館に三年間預けられ英語を修得する。翌万延二年には水戸浪士の英国公使館襲撃、書記官・長崎領事傷害、護衛の日本武士の英人番兵と伍長の殺害という不穏な排外運動の中で、藩命とは言え子供の英語修得を英国公使館に託した父親は時代の流れを察知できる進歩的な人物ではなかったか。子規の父常尚(通称隼太)とは全く異なる子供に対する強い教育方針があり、子供もそれによく応えた。                                   
 英国公使館での小太郎の様子は公使館員アーネスト・サトーの『回想録』に記載されている。「当時ウイリスと私は海岸通二〇番地の公使館ウイングに住んでいて、そこに小林小太郎という侍の子供が私たちと食事を共にしていた。彼は英語を修得するため、藩命にによりウイリスの元についていた。彼は平均以上の能力はなかったが、いい子だった。一八六三年(文久三年)の春、イギリス政府が生麦事件につき幕府に最後通牒を出した頃、小太郎は親元へ帰った。」 尚サトウは優れた英国外交官で『外交官の見た明治維新』(岩波書店)がある。                               
  小太郎が学んだウイリスとは公使館医師のウイリアム・ウイリスのことで、人物識見ともに秀で明治二年(一八六九)には薩摩藩医学校長に就任し、明治新政府のドイツ医学偏重の中でイギリス医学を日本に根付かせた。幸運にも小太郎はキングズイングリッシュを操る希有な通辞・翻訳官として出発することになる。                
 帰藩後慶応義塾に入社するが、現存する『慶応義塾入社帳』最古の第一頁に黒々と「文久三年春入門  松平隠岐守内 小林小太郎」と自筆署名している。この年小太郎は一五歳に達し元服の式を行った。草創期の慶応義塾では「一六歳、福沢諭吉の門に入り、更に英書を講」じた(小太郎略歴書)。同年入社で塾員となったのは僅か二名、即ち小林小太郎(塾員・特撰員/松平隠岐守/伊予松山)と和田慎二郎〔福沢英之助〕(塾員・特撰員/松平大膳太夫/中津)のみである。

〔英学者・文部省時代〕                             
翌元治元年(一八六四)幕府直轄の開成所に転じ、英書を翻訳して『築城約説』を出版する。明治元年(一八六八)には松山藩洋学司教、翌二年大学〔開成所〕助教、翌三年には大阪洋学所大助教となる。松山藩洋学司教の具体的な内容は不明である。      
明治四年文部省から欧州に派遣され帰国後文部省報告局(翻訳担当)に出仕、報告局長、東京大学予備門長など歴任する。欧米の教育制度の紹介、導入、展開の主導者として明治期の教育改革に重要な役割を担った。明治一二年(一八七九)文部省が刊行した『教育辞林』全四冊は『Kiddle & Schem's Encyclopedia of Education 』(一八七七年・アメリカ)の翻訳で前半は小林が訳し後半は大村一歩が引き継いで完成している。後に『教育辞典』となっているが、日本の教育史の古典的労作である。内容は1)教育及教授の理論2)学校経済3)学校制度4)政府の処置5)教育沿革6)教育者及教育有志者ノ小伝7)学校統計ほか8)教育文学から構成されている。                明治三七年(一九〇三)一〇月死去。墓は東京谷中天王寺にある。職歴、著書など詳細は本テーマと直接の関係がないので割愛する。           

 3 伊予松山藩の英語熱                             

尊皇攘夷の真っ只中での小太郎の英国公使館派遣、慶応義塾入社は一三代藩主松平勝成の英断であり慶応元年(一八六五)には松田晋斎が慶応義塾に入社している。維新後の明治二年から四年にかけて藩政改革の為に二〇歳前後の若者二七名が官費生として東京、大坂(当時)に送り出された。東京南校には佐伯敬崇、高木明輝、共学舎には佐伯陽一、中島勇三郎ら、慶応義塾入社は松木織之進、高木小文吾、薬丸大之丞、和久喜佐雄、十河栄三郎の五名で、薬丸大之丞は内藤鳴雪の実弟である。               
更に明治五年(一八七一)には松田晋斎、河野亮哉、野中久徴、池田謙蔵の四名を公費でアメリカに派遣した。松田は帰国後工部省工学寮、河野は七四年帰国大蔵省租税寮、池田は七三年帰国大蔵省勧業寮、野中は七二年帰国し白川県中属として出仕した。(『幕末明治海外渡航者総覧』)英才を活用する土壌が旧態依然とした保守的な旧松山藩には無かったと云えよう。海外留学生には一ヵ年一〇〇〇両支給、修学生二七名の年額の総額は五四八四両の巨額に達した。                                                                     明治三年には松山藩校(明教館)に洋学を設け、明治五年大洲英学校(下井小太郎)、明治六年宇和島の英学舎・不棄学校(中上川彦次郎・四屋純三郎)と陸続と誕生し、明治八年愛媛英学所(草間時福)が設立されることになる。そのいずれもが慶応義塾の福沢諭吉の門下生が指導に当たった。明治一二年当時の松山中学校からの遊学は慶応義塾八名、三菱商業学校九名、司法省法律学校三名、東京府商法講習所二名、陸軍教導団(後の陸軍士官学校)五名、更に私立済生学舎、神田共立 学校、東京高等師範学校、大学予備門などなどである。(『四十年前之恩師草間先生』)明治の新時代に向けて大きなうねりとして有為な青年たちが伊予から旅立って行くが、青年子規も同様の歩みを始めることとなる。 

 子規が学んだ松山中学校は藩校明教館を発祥として、松山県学校、英学舎・英学所を経て北予変則中学校、松山中学校となり今日の県立松山東高等学校へと続いている。慶応義塾出身の草間時福が英学所初代所長と松山中学校初代校長の任に当たり、二代校長は同じく慶応義塾出身の西川通徹であった。(『愛媛県立松山東高校百年史』)明治四年以降県の学務を担当した鳴雪・内藤素行の『鳴雪自叙伝』によれば、洋学には慶応義塾出身の稲垣銀治、稲葉犀五郎、中村田吉らを揃え、学内ではスマイル『自助論』など洋書をもって論じ、福沢諭吉直伝の演説、討論会が活発に開催された。鳴雪は県令岩村高俊に同行して演説場に度々顔を出している。
                          
4 子規の英語修業                               

〔松山中学校時代〕                               
 子規の中学校入学は草間、西川両校長辞任後の明治一三年(一八八〇)であるが、「学校は振はず教師は皆愚なり無学なり」で「通学否通遊」し「過激なる演説」に熱を上げたと東京大学予備門の同級生であった大谷是空に書き送っている。現在の愛媛県立松山東高校(前身が松山中学校)の名誉の為に付言しておくが、校長は同人社卒業の村松賢一、英語の担当は慶応義塾出身の菱田中行(内藤鳴雪の従兄弟)や三輪宿犀、数学は直接の指導は受けていないが日本の数学史上に燦然と輝いている岡本則録(大阪開成所・大阪師範学校教官で松山中学校後陸軍士官学校教授歴任)らであり地方の中学校としては極めて水準が高い。英語、数学が苦手で毛嫌いした子規の自己弁護の強がりであろう。     
 子規の中学校時代の記録は『子規全集』の『初期文集』と『初期随筆』に集約されている筈であるが、残念ながら英語修行の類の記載がない。母方の祖父大原観山の生涯「蟹行の書を読まず(横文字の書を読まず)」に殉じたのではあるまいが、現存しているのであれば中学時代の横文字のノ−トに目を通したいものである。          

 『墨汁一滴』(明治三四年)に東京大学予備門当時の英語学習の記述がある。「余の勉強といふのは月に一度位徹夜して勉強するので毎日の下読などは殆どして往かない。(略)それでも時々は良心に咎められて勉強する、其法は英語を一語一語覚えるのが第一の必要だといふので、洋紙の小片に一つ宛英語を書いてそれを繰り返し繰り返し見ては暗記する迄やる。併し月に一度位の徹夜では迚も学校で毎日やるだけを追っ付いて行くわけには往かぬ。」期末・学年末試験の一夜漬けの経験は誰しもあろうが、子規の英語苦手意識は身から出た錆といわれても致し方ないのではないか。                
 恐らく松山中学校時代も同様の学習方法であったろうが、英語の初級段階では一夜漬けで充分対応できたかもしれない。参考までに中学校英語の成績を記す。教科書は愛媛県英学所初代所長の草間時福が選定したものが多く、その多くは慶応義塾で使用しており地方の中学生には難解であったろう。                       

明治一三年     英書読方(パーレー万国史)          三三・五(三五)
 (一年前期)   英書問答(ウイルソン第一・第二リードル)   二六  (三〇)       
明治一四年    英書読方(スエル希蝋史)           三〇・五(三五)   
 (一年後期)   英書問答(パーレー万国史 ビネラ文典他)  一五  (三〇)   
明治一五年     英書講読(チトレル万国史           九六  (一〇〇)  
 (二年前期)                                       
明治一五年     英文講読(マンデビール第四読本)       七九  (一〇〇)  
 (二年後期)                                  
明治一五年     英文講読(スチュデント仏国史)       九二・五(一〇〇)  
 (三年前期)                                  
明治一六年     英語                       九五・五(一〇〇)  
 (四年前期)                      
( )は満点数値     尚総合席次では一年前期が二三名中三席、一年後期が十二名中五席、二年前期が十五名中六席、二年後期が十一名中二席、三年前期が七名中三席、四年前期が八人中二席と上位にランクされている。                             

〔東京大学予備門時代〕                             
子規は明治一七年(一八八四)大学予備門予科(英語科第四級)に入学、同級に漱石・夏目金之助らが居た。講談社版『子規全集』年表の明治一八年一二月一日に「大学予備門杉浦重剛非職となり、文部権大書記官小林小太郎が予備門長事務取り扱いを兼務する。」とある。同年九月一一日には第一学期が始まり、子規は原級に留まり九月入学の是空・大谷藤治郎と同級になる。落第の原因は数学(幾何)が英語使用のみで日本語厳禁であったことで「生来尤いやと思いしこと」とこの事件を記している。当時の予備門長(校長)小林小太郎こそ先述した伊予松山藩きっての英語青年であり、藩校明教館に父子で勤め、福沢諭吉が開校した慶応義塾(英学)の塾生第一号にして福沢を助けた人物であるとは子規は生涯知ることはなかった。                           
予備門時代の英語としては『無花果艸紙』に記載してある英文「第十六世紀に於ける英国及び日本の文明の比較」があるが、その他の英文を卑見していないので子規の英語力の水準が如何なものか判断がつかない。小林小太郎の翻訳「築城約説」が世に出たのが弱冠一六歳であり、草間時福らの薫陶を受けた県英学校、松山中学校の先輩の活躍から判断すると上京して己の英語の学力の無さに直面したのは当然であろう。          

 明治二五年文科大学国文科二年の時大学に提出した英文の芭蕉論[Baseo as a Poet] は訳者三浦宏の付記では「俳句のことを紹介した英文としては最初のものに属する」としている。明治二六年三月には大学を中退しており子規の学生時代最後にして最高の英文「作品」ではないのだろうか。共立学校の四級から予備門に入学したのは子規と仙湖・菊地謙二郎の両名であり、柳原極堂の思い出では神田猿若町の子規の下宿に度々顔を出していた仙湖は率直に予備門当時の勉強振りを描写している。「子規はやれば何でも出来た男である。学課は常に抛って置いて試験前になるとやりだす。学課の中で最も嫌いなのは語学であって,語学ほど無趣味ものは無いと言ってゐた、それに数学も好きな方ではなかった。学課の方は不勉強の方ではあったが絶えず本は読んでゐた。一方「場合によってはお世辞を言ったり愛嬌をふりまいたりもし」ていた。第一高等中学校(明治一九年予備門改称)の親友でもある大谷是空と共同で「ゴドルヒン」(Edward George Earle Lytton:Godolphin 1833) を翻訳することにしたが、子規の翻訳小説について「総じて一体の文章文句兎角訳文の臭気多く今少し潤刪あらましほし所」としている。                                        

5 おわりに                                  

二一世紀の今日、俳句も国際化しつつある。英語の俳句について若し子規が生きていたらどの様にコメントするのであろうか。                      
子規の学生時代(大学予備門・第一高等中学校及び文化大学)の受講ノート二七冊は天理大学図書館に所蔵されているが、これを除くと横文字の記述は少ない。明治二四年の『かくれみの』に短詩が記載されている。                                                                 
The Violet                                 
To kiss the violet's lips/ In bed of grass I'v lain /            
And dover'd her with sleeves,/ A night's shelter from rain                                              
先述した英文の芭蕉論[Baseo as a Poet] では松尾芭蕉の俳句一八句を英訳している。有名な「古池や」の逐語訳を参考までに記す。                    
   The old nere!/  A frog jumping in, / The sound of water.        
  A frog jumping in,
                          
子規の日本語の文章では感じられない優しい心情が読者に伝わってくる。俳句の国際化が叫ばれているが、もし子規が今日生存しているとしたら「よもだ」でこの短詩を披露するのではと思う。「英語が苦手」な子規からは想像もできない二一世紀のハイクの展開を注意深く見守っていきたいものである。英語少年小林小太郎も英語ハイクでは活躍の舞台が広がっている筈である。                                                        以上
慶応義塾史事典編集委員会 編集 『慶応義塾史事典』  慶応義塾 発行 2008年11月8日

小林小太郎 こばやしこたろう

弘化五〜明治三七(一人四人〜一九〇四)年。慶応義塾入社帳の筆頭者、教育者。諦は儀秀。江戸赤坂氷川台、駿河田中藩邸内で同藩高島流砲術師範小林小四郎の長男として誕生。父はその後伊予松山藩に召し抱えられ、小太郎は万延元(一八六〇)年イギリス公使館に預けられる。捷夷気運の高まりで公使鮨を退くと、文久三(一人六三)年春、福沢の塾に入門。義塾最古の姓名録(のちの入社帳)は「文久三稔春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」の書き入れを初筆とする(ただし他筆)。翌年幕府開成所に転じ、慶応三(一人六七)年教授方手伝並出役、同年五月には『築城約説』を出版。明治元(一八六七)年松山藩洋学司教、二年九月大学(昌平贅の後身)に少助教として出仕、翌年大阪洋学所に転じる。四年より二年間、学事調査のため欧州視察。一三年文部少書記官となり、一四年報告局長。のち文部棒大書記官。
 この間、文部省から翻訳出版した『馬耳蘇氏記簿法』(一人七五〜六)は、アメリ
カ式簿記の教科書で、長く全国で使用された。他にも『政体論』(一人七五)、『日本教育史略』二八七七)、『教育辞林』(一八七九)などを出版、また軸訳論文も多数あり、わが国教育制度の近代化に大きく貢献した。二一年大日本教育会理事、二二年退官。三四年神田区学務委員長。三七年一〇月三〇日没、享年五六。[都倉武之]
文献
三好恭治「伊予松山藩士小林小太郎」『伊予史談』(三三八号) 二〇〇五年。
西川幸治郎「小林小太郎」『三田評論』(六二六号) 一九六四年。
愛 媛 と 慶 応 義 塾 〜独立自尊を希求した二〇七名の明治の大先輩〜
1 はじめに

○慶応義塾創立一五〇周年
日本を代表する近代的高等教育を実施した私学の一つである慶応義塾は平成二十年(2008)に創立百五十周年を迎える。慶応義塾の起源は安政五年(1858)福沢諭吉(1834〜1901)が江戸築地鉄砲洲にある中津藩奥平家中屋敷で開いた蘭学塾に由来している。
 福沢諭吉が緒方洪庵「適塾」で和蘭語を学び、安政五年築地で蘭学塾(慶応義塾起源)を開塾するが、「福翁自伝」によれば英学への志はペリーの来航以降であり、万延元年(1860)軍艦奉行木村喜毅らの咸臨丸に同乗渡米、文久三年(1863)外国奉行池田長発らの遣欧使節に随伴して渡欧により実体験を踏んだが会話力は不十分であった。帰国後英学塾としての慶応義塾に変貌することになる。明治十六年四月「慶応義塾紀事」によれば、「安政五年ヨリ文久二年ノ終ニ至ルマデ四ヶ年余ノ間ハ・・・僅ニ一小家塾ニシテ事ノ記ス可キモノモナク且塾ノ記録サヘ詳ナラザレバ一切ノ紀事ハ文久三年正月ヨリ起テ・・・」と記載されている。
その意味でも文久三年起『慶応義塾入社帳』(以下『入社帳」』と記す)は慶応義塾草創期の重要な資料であるが、『入社帳』の筆頭に「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」と記名されている。松平隠岐守とは伊予松山藩初代藩主で徳川家康の母違いの兄である松平定勝が家康より拝領した官名(官位)であり「先君の意向」として第十三・十五代松平勝成まで継承された。小林小太郎については後述するが彼を嚆矢として愛媛と慶応義塾の繋がりは深く且つ緊密であると断言しても過言ではあるまい。 

○慶応義塾(三田)と伊予松山藩中屋敷
 慶応義塾が現在の三田の地に落ち着くまで前期鉄砲洲(築地中津藩奥平家中屋敷)、前期新銭座(港区浜松町)、後期鉄砲洲、後期新銭座(有馬家中屋敷)と移転を繰り返すが、文久三年は新銭座から鉄砲洲に再移転の時期に当たり、義塾の発展を意図して前期鉄砲洲より広い家屋を確保した。
現在の三田への移転は明治三年十一月「其方儀近来広く洋書を訳述し許多の生徒を引立裨益不少候に付、出格の訳を以三田二丁目島原藩上げ邸一万千八百五十六坪、願の通拝借の儀御許容相成候」(東京府令書)を以って実現した。島原藩中屋敷の隣地は伊予松山藩中屋敷であり、藩邸を引き継いだイタリア大使館の敷地には赤穂浪士の大石主税、堀部安兵衛ら十名が切腹した史実を記録する石碑が残っている。慶応義塾と伊予は江戸・東京では地続きの関係にあった。
2 明治初期愛媛県下の中等教育 

○伊予八藩の教育事情
 明治維新前後の藩校から新学制に移行する過程を極めて簡潔に述べておきたい。
愛媛(伊予)は江戸時代八藩(松山・今治・小松・西条・宇和島・吉田・大洲・新谷)から成り、各藩は藩校[明教館(松山)、克明館(今治)、養正館(小松)、択善堂(西条)、明倫館(宇和島)、明倫堂(吉田)、明倫堂(大洲)、求道軒(新谷)など]を設立し主に武士の子弟を教育した。
宇和島藩では文政年間以降二宮敬作、三瀬周三、大野昌三郎らを輩出し、文久、慶応年間には長崎・横浜に十五、六人が英語留学し、藩内の英蘭学稽古場では三瀬周三が教授し入門者は七十余名を数え伊予に於ける近代化の曙は宇和島から始まったと言える。明治元年に「明倫館」の機構改革を行い、明治三年には「明誠館」と改名し学則・校則・寄宿寮規則を大幅に改正している。松山藩でも教育の刷新を狙い明治三年に漢学主体の「明教館」に漢学・皇学・洋学・医学等の教科を加え規則を大幅に改めた。教科の遂行に当たり各「司教」を任命した。
 明治四年廃藩置県により八藩は廃止になり藩名と同じ各県(例 松山県・・・新谷県)が設置された。更に明治四・五年の府県統合により松山県⇒石鉄(いしづち)県と宇和島県⇒神山県が誕生し明治六年二月に愛媛県に統合される。更に明治九年八月から二十一年十二月までは香川県を合併していたので行政は混乱を極めた。
明治四年八県ごとに藩校を引き継いで県学校が設立された。石鉄県では学務専任として斎藤利敬が任じられ、神山県では肝付兼弘が学事専任となった。明治六年には愛媛県が誕生し、県下を六中学区(新居浜・西条、今治、松山、郡中、大洲、宇和島)に分割したが、翌七年には六大区単位に修正している。以後教育改革が全国的に統一され近代的な学校教育へと移行することになるが、松山と宇和島を中心に述べる。

○英学所・変則中学校
 明治四年十一月大洲の有志により洋学会社が発起され翌五年十月に大洲英学校が開設された。明治六年三月松山では正岡子規も後年学んだ勝山学校併設の洋学科が独立して英学舎となり、明治六年八月西条では真鍋順平らの発起で西条社(洋学会社)、明治六年一月宇和島では宇和島第一本校に英学舎(不棄学校)が相次いで誕生した。
明治八年八月には旧松山藩明教館内に県立の英学所を設置し、小学校令に基づく修了者に限り入学を許可したので中学校の前身と考えて良かろう。明治九年には宇和島の「不棄学校」を母体にして「南予変則中学校」、松山の「英学所」を母体にして「変則中学校(北予中学校」が設立された。

○慶応義塾出身の指導者
県下の中等教育を進めるに当たり教師として慶応義塾出身者を多く迎え入れ、慶応義塾での教材を使用し慶応義塾で提唱した演説を導入していった。簡潔に慶応出身の教師陣を紹介しておきたい。
 開明的な君主松平勝成は松山藩校(明教館)に洋学を設けると共に明治元年以降藩の職制ならびに職掌を改編し、藩洋学司教には【小林小太郎】を任じている。明治六年には英学舎を設置し、【松田晋斎】【稲垣銀次郎(銀治)】【稲葉犀五郎】【中村田吉】を招聘した。明治八年に松山東高校の濫觴でもある愛媛英学所が設立されるが、初代英学所総長には【福沢諭吉】と宇和島出身の末広鉄腸が愛媛県令岩村高俊に推挙した【草間時福】が就任し助教として【柘植武憲】、指導役には上級生の【村井保固】【三輪俶載】が当たった。 
【草間時福】は学制改革により北予変則中学校並びに松山中学校の初代校長(総長)(明治十一年六月〜十二年七月)も務めた。尚二代校長に【中井恒介】(明治十二年十一月〜十三年三月)第三代校長に【西河通徹】(明治十三年四月〜十四年六月)、校長心得に【菱田中行】(明治十四年六月〜十六年十二月)が任命されている。更に伊予尋常中学校初代校長は【山崎忠興】(明治二十一年九月〜二十六年二月、県立松山中学校初代校長は【野中久徴】(明治三十一年十一月〜三十七年二月)と愛媛県出身の慶応義塾卒業者が校長に任ぜられている。
 一方南予(石鉄県)の近代的な教育は宇和島伊達藩を中心として展開した。明治六年宇和島英学舎(不棄学校)が開設され講師には【福沢諭吉】の支援で【中上川彦次郎】(明治六年四月〜明治六年十月)【四屋純三郎(準吉)】(明治六年十月〜)のほか【渡辺恒吉】【小泉信五郎】【国府寺則須】らが参画した。
一方明治五年には【下井小太郎】らによって大洲英学校開設が開設された。後年になるが明治三十四年年開校の八幡浜甲種商業学校(現八幡浜高校)開設にも西宇和郡長として多大の寄与をした。不棄学校の校長、講師を務めていた【中上川彦次郎】【四屋純三郎】は大洲英学校にも講師として出張教授した。【中上川彦次郎】の後任として【下井小太郎】が不棄学校校長(明治六年末〜七年末)に就任している。学校の財政は元藩主の寄付に負うところが大であっただけにその後財政危機や生徒数激減また教育制度の改編もあり英学校経営は廃校に向かった。
【中上川彦次郎】(1854〜1901)は福沢諭吉の姉の子で時事新報社長、山陽鉄道社長の後三井銀行の理事として芝浦製作所、王子製紙、鐘淵紡績、三池炭鉱の経営を指導した明治を代表する実業家である。彦次郎の宇和島・不棄学校校長就任は福沢諭吉の指示と思われるが、福沢にとっての主君である中津藩主【奥平昌邁(まさゆき)】は幕末の四賢侯の一人である宇和島藩伊達宗城(むねなり)の三男であり、主君筋から宇和島・不棄学校支援の要請があったとも考えられる。
3 福沢門下生たち

○「慶応義塾入社帳」と小林小太郎
 文久三年起『慶応義塾入社帳』は慶応義塾草創期の重要な資料であるが筆頭に「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」と書かれている。小太郎は慶応義塾(英学塾)で確認できる最初の塾生であり同年入社で塾員となったのは【小林小太郎】と【和田慎二郎】〔福沢英之助〕の僅か二名である。『入社帳』全二十九冊は三田本塾、医学所、大阪・徳島慶応義塾、法律学校、大学部、幼稚舎から成り、明治三十四年十一月終了している。総記載者凡そ二万人中卒業名簿に相当する「塾員名簿」には四千名弱が登録されている。記載項目は入学者の氏名、年齢、出身地、主人・身分、父兄・保証人などである。
 小太郎の父・小林小四郎は嘉永六年(1853)伊予松山藩十五万石の第十三代松平勝成に禄百五十石で抱えられた。小太郎は慶応義塾に入学後、福沢諭吉に代わって英語の教鞭をとった。小太郎の語学力は抜群であったのは、十三歳の時藩の留学生として英国公使館で英語を学んだことによる。当時のことが後に英国大使となったアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に生き生きと記録されている。「ウイリアム・ウイリス(公使館付医官)とサトウは海岸通り二十番地にある公使館の一隅に同居し、小林小太郎という日本の若侍も、私たちと一緒に食事していた。小林は、英語を習うために日本政府(伊予松山藩)からウィリスに委託された男で、能力は人並み以上とも思えなかったが、よい少年であった。」文久二年の生麦事件以後日英関係は急速に悪化し、文久三年二月に英国公使館から引き上げ、同年春には藩命で慶応義塾に入学した。
翌元治元年には幕府直轄の開成所に転じている。慶応三年開成所の要請で英書を翻訳して『築城約説』(誠格堂)を出版した。明治元年十月松山藩洋学司教を拝命し、明治二年四月には横浜法朗西学校に派遣され仏語を修学した。同年九月大学(旧昌平学校)に移り少助教、中助教、大阪洋学所大助教に昇進している。明治六年文部省に出仕し、報告局(翻訳担当)一筋に報告局長に栄進する。明治十五年文部権大書記官となり、明治十八年東京大学予備門長事務取扱兼務した。同時期に正岡子規は大学予備門に在籍していた。明治二十二年退官している。明治三十七年十月三十日享年五十七歳で死去。著訳書に『日本教育史略』『教育辞林』などのほか明治初期の中学校教科書として必須教科であった『馬耳蘇(マルシェ)氏記簿法』『馬耳蘇氏複式記簿法』を訳出している。                                                                             

○伊予八藩慶応留学生
初期の慶応義塾の入学は各藩からの派遣が中心で私費留学は少なかった。愛媛県でも同様であった。慶応二年には松山藩(松平隠岐守)藩医師【松田晋斉】が続いた。慶応元年吉田藩(伊達若狭守)から【森平蔵】【森貞次郎】【赤松鉄之丞】、慶応三年宇和島藩(伊達遠江守)から【清家定一】が派遣された。
松山藩では開明的な藩主勝成により二十歳前後の若者三十二名が官費生徒として英語(十五名)、仏語(二名)、普通学(二名)、語学(四名)、算学(三名))、医学(六名)研鑽の為東京、横浜などへ派遣され、明治三年には欧米に四名が派遣された。うち慶応義塾には五名【松本織之進】【高木小文吾】【薬丸大之丞】【和久喜佐雄(正辰)】【十河榮三郎】が選抜され、海外には慶応義塾で学んだ【松田晋斉】が派遣された。同年、宇和島藩から【小原重郎】今治藩(久松壱岐守)から【玉井猪勢二】西条藩(松平従四位)から【丹文次郎】【宇治村幾三郎】が続いた。松山藩出身者は『松山藩役録』に拠れば百〜二百石の中士の子弟である。他藩についても同様かと推察している。(注)「松山藩進達留」に拠る。
慶応義塾創成期(文久三〜明治三年)の県内出身塾生十六名を一覧し特記事項を付記する。数名(小林小太郎、松田晋斎、和久喜佐雄、)を除き詳細は不明である。

番号 入学 氏 名 改名 生 国 入学年 特 記 事 項    
79 N01 小林小太郎 松山藩 文久03 松山藩英学司教 【百五十石】
170 N02    松田 晋斎 松山藩 慶応01 松山英学舎教諭  【藩医師】
183 N03 森  平蔵 吉田藩 慶応01
182 N04 森 貞次郎 吉田藩 慶応01
1 N05   赤枩鐵之丞 吉田藩 慶応01
62 N06 清家 定一 伊達藩 慶応03
172 N07 松本織之進 松山藩 慶応02 【百二十石】
100 N08 高木小文吾 明輝 松山藩 明治02 【百七十石】
185 N09   薬丸大之丞 松山藩 明治02 内藤鳴雪実弟    【百石】
204 N10 和久喜佐雄 正辰 松山藩 明治02 盛岡中学校長  【百五十石】
44 N11 小原 重郎 伊達藩 明治02
116 N12 玉井猪勢二 今治藩 明治02
121 N13 丹 文次郎 西条藩 明治02
30 N14 宇治村幾三郎 西条藩 明治02
87 N15 志賀 雷山 伊達藩 明治03
98 N16 十河栄三郎 松山藩 明治03 【百八十石】
(注)「番号」はアイウエオ順 「N番号」は「入社帳記載順」、「特記事項 石高」は「松山藩役録(伊予史談会)」に拠る。

○後続のエリート群像
 明治四年以降「入門帳」が終了する明治四十三年までに一九一名、文久三年入社の小林小太郎から通算すると二〇七名が慶応義塾に学んだことになる。但し今日塾員として登録されている正式の卒業生は「慶応義塾学報第壱号」(明治三十一年三月刊)に拠れば僅か三十八名である。
この間で松山中学校初代校長【草間時福】(1853〜1932)が普及させた民権運動と【福沢諭吉】を中心とした「演説」が当時の青年に与えた影響は無視できないので紹介しておく。
正岡子規は松山中学校を退学して上京するに当たり後輩への檄文に「何トナレバ草間先生ノ此校ニ来リ演説ヲナスヤ伊予全国之ガ為ニ始メテ演説ノ有益ナルコトヲ知リタルナリ 故ニ伊予全国ノ人民ハ常ニ眼ヲ中学校ノ演説会ニ注ケリ 是レ其本源ナレバナリ 且ツ曩日海南新聞紙上ニ於テ之ヲ賞励スルガ如キアレバ一国ノ元気之ガ為ニ激昂シ従テ演説会ヲ拡充スルノ良風ヲ及ボスベキナリ」(正岡子規「東海紀行」)と書き残している。 
 明治八年愛媛英学所を設立してその指導者を求めていた愛媛県権令岩村高俊は、宇和島出身の当時曙新聞の主筆をしていた末広鉄膓の仲介で慶応義塾を同年卒業した【草間時福】青年と面談し、二十三歳の書生ながら月俸四〇円の愛媛英学所総長(所長)として迎えられた。 
愛媛県権令岩村高俊の評価は、愛媛県下の人物紹介では自由民権派の権令として評価が高いし、それだけの実績を挙げたのは事実であろう。しかし司馬遼太郎の小説に描かれた岩村の姿には冷酷なまでにメスを入れている。越後長岡藩の家老河井継之助の懇願を僅か半刻で切上げ、高圧的に振る舞い弁明を一切聞かず五ヵ月に及ぶ奥州での戦闘に追い込んだ張本人は岩村であり(『峠』)、大久保利通に取り入り、佐賀藩の江藤新平や島義勇の反乱を仕組み佐賀城を争奪し、維新の元勲江藤を梟首で処刑したチョロマ(傲慢で無思慮な行動家)である佐賀県権令は同じく岩村であった(『歳月』)。                                                   
 草間の松山時代は、英学舎・英学所、北予変則中学校、松山中学校の時代に相当する。明治八(一八七五)年八月から明治一二(一八七九)年七月迄の四年間である。草間の英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。英学所ではスマイルの『自助論』などを洋書でもって論じるかたわら、月二、三回の演説、討論会を開き、先生も生徒も交りあって議論の機会を持った。明治十二年任を終えて帰京するが、草間を慕って上京・進学する生徒が多かった。「入社帳」には【村井保固】【梅木忠朴】【宮内直挙】【浅岡満俊】【門田正経】【矢野可宗】【細田重房】が記され卒業後言論人を志す者が多かった。草間も朝野新聞、北越新聞、東京横浜毎日新聞などの記者、主筆を経て工部省逓信書記官となり郵便電信学校長、航路標識管理所長などを歴任した。(注)永江為政編「四十年前之恩師草間先生」に拠る。

番号 入学 氏    名 改 名 生 国 入学年 特記事項    
2 赤 松 勇 吾 宇和島 30
3 N42 浅 井   勝 宇和 08
4 浅 井 密 蔵 八幡浜 27
5 N41     東   胤 良 浮穴郡 08
6 阿 部 熊 一 今治 28
7 N22 天 谷 確太郎 吉田藩 04
8 綾 井 国 治 愛媛県 20
9 綾 井 恒 治 愛媛県 20
10 飯 尾 岑三郎 新居郡 24○ 製糸業経営
11 N29 飯 淵 貞 正 神山県 05
12 N25 池 内 勝太郎 石鉄県 05
13 石 川 八百蔵 宇摩郡 24○ 松蔭女学校教諭
14 石 原   擴 温泉郡 22○◇ 横浜エストマ商会
15 石 原   操 温泉郡 21○ 第五十二銀行頭取
16 石 丸 鶴 吉 風早郡 14
17 石 村 愛 助 新居郡 23
18 石 村 兼 祐 宇摩郡 26
19 石 村 宗三郎 宇摩郡 26
20 石 村 林二郎 宇摩郡 31
21 猪 多 正 智 松山 15
22 伊 東   温 伊藤 松山 23○◇ 大阪朝日新聞 (常盤会)
23 伊 藤 竹冶郎 東宇和 28
24 伊 藤   正 東宇和 27
25 伊 藤 庸 職 松山 23
26 井 上 粂一郎 伊方 14
27 井 上 純三郎 大洲 19○ 慶応義塾商工学校主任
28 N28 今 岡 武 代 神山県 05
29 今 西 恒太郎 北宇和 20○ 自由党 党報局
30 宇 高 ?太郎 西条藩 04
32 宇都宮 運 一 伊方 31
33 宇都宮 壽 平 伊方 18
34 梅 木 正 衛 上浮穴 12
35 梅 木 忠 朴 玉川町 10 ◇   松山中学教諭 新聞記者
36 梅 田   清 松山 22○ 松山商業銀行
37 浦 和 八 郎 南宇和 25
38 N36 岡 田 松 亭 愛媛県 07
39 岡 部 浪二郎 新居郡 30
40 岡 本 徳次郎 松山 23 ◇
41 小 川 健一郎 新居郡 10
42 小 倉 和 市 上浮穴 30
43 N35 尾 田 隆 就 愛媛県 06
45 景 平 源四郎 北宇和 24○ 豊州鉄道炭鉱
46 N37 梶 田 辰次郎 宇和島 08
47 梶 原莵喜次郎 東宇和 19○ 大日本精糖
48 片 岡 喜三郎 愛媛県 20
49 加 藤 綱 丸 今治 31
50 加 藤 正 廊 松山 12
51 加 藤 泰 武 新谷 22
52 門 田 正 経 松山 12 ◇ 東京協会幹事長
53 金 岡 亀十郎 伊予郡 24
54 河 井 芳太郎 新谷 22○
55 川 田 惣太郎 郡中 33
56 菊 池 一 豊 綾五郎 周布郡 24 明治生命
57 菊 地 武 雄 西宇和 20
58 菊 池 廣 胖 西宇和 17
59 木 田 勝 一 北宇和 30
60 北 村 辨 吉 伊予郡 22
61 木 村 国三郎 新居郡 24
63 吉 良 丑 乙 南宇和 23
64 N27 吉 良  亨 神山県 05
65 吉 良 極 吉 南宇和 15
66 吉 良 麟太良 南宇和 15
67 工 藤 精 蔵 新居郡 21
68 N26 工 藤 磨@平 石鉄県 05
69 黒 川 幹太郎 周布郡 18
70 黒 田 光太郎 宇和島 18 ◇
71 N20 黒 田   進 松山藩 04
72 N43 国府寺 則 順 吉田 08
73 河 野 政治郎 大洲 33
74 河 野 乕 尾 北宇和 26○ 伊予旭製絲社長
75 河 野 政 通 新谷 28
76 河 野 茂 市 喜多郡 34
77 後 藤 篤三郎 松山 15
78 後 藤 守 衛 松山 15
80 斎 藤  孟 喜多郡 20
81 N21 佐 伯 壽 人 松山藩 04
82 佐 伯 英 雄 久万 31
83 佐 藤 光 作 新居郡 12
84 佐 藤 政次郎 薬師寺 北宇和 23 大阪朝日新聞
85 賓 藤 盛 久 北宇和 28
86 塩 崎 祐一郎 東宇和 30
88 宍 戸 廷 清 宇和島 21
89 芝   清五郎 北宇和 22
90 清 水  巌 西宇和 28
91 N17 下 井 勝 八 小太郎 大洲藩 04 大洲英学校・不棄学校長。
92 菅   哲一郎 愛媛県 13
93 菅   正 意 北宇和 28
94 菅   篤 叙 松山 14○
95 菅   學 應 宇摩郡 22○ 慶應義塾大学教授
96 N39 杉 山 重 義 松山 08
97 住 田 濱次郎 岡井 伊予郡 19 今出絣経営
99 高 岡 虎 一 東宇和 24
101 高 須 峰 造 越智郡 13
102 高 須 律之進 越智郡 14
103 高須賀 伊三郎 温泉郡 22
104 N30 高,橋 寛 造 石鉄県 06
105 N24 高 橋 正 鞆 石鉄県 04
106 高 橋 米 麿 道後町 21 ◇
107 高 山 長 幸 喜多郡 20○ 衆議院議員
108 竹 内 信 豊 信正 松山 14 ◇
109 武 田 喜太郎 吉田 32
110 N32 竹 田   等 愛媛県 06
111 竹 葉 武 市 宇和島 23
112 竹 村 彦三郎 宇和郡 09
113 多々羅 健 吉 西宇和 23○ 第二十銀行役員
114 田 中 岩三郎 吉田 13
115 N34 田 中   寛 愛媛県 06
117 玉 井 太 郎 宇和島 32
118 玉 田   廣 吉田 29
119 丹   幸 平 新居郡 30○ 三井銀行
120 丹   霊 源 西条 23
122 近 田   健 西宇和 25
123 N31 津 田 政 協 松山 09
124 都 築  忠 西宇和 23
125 N33 都 築 経治郎 宇和郡 06
126 寺川 一太郎 西条 26
127 豊 嶋 満 俊 浅岡 松山 12○◇ 海軍造船大監
128 戸 田 芳 助 新居郡 24○ 交?社役員
129 N19 豊 田 敬 一 04
130 豊 田 哲 輔 西条 30
131 中 井 和賀雄 宇和島 25
132 永 井 乕之輔 北条 22
133 永 易 三千彦 新居郡 26
134 長 尾 忠 雄 越智郡 24
135 中 田 万太郎 北宇和 22○ 千代田生命社長
136 仲 田 林太郎 松山 20
137 中 村 美知造 松山 21
138 中 村 柞 胤 松山 23 ◇
139 N38 西 川 通 徹 西河 宇和島 08 松山中学校長。海南新聞
140 西 原 義 任 松山 16 ◇
141 西 本 節五郎 越智郡 32
142 二 宮 勝 也 喜多郡 09
143 二 宮 庫太郎 西宇和 27
144 二 宮 精 一 久万町 21○◇ 松山商業銀行
145 二 宮 百 松 北宇和 22○ 宇和島中学校教諭
146 野 中  幹 松山 21
147 野 中 茂三郎 温泉郡 34
148 荻 原 麟二郎 愛媛県 09
149 長谷部 兵 太 越智郡 21
150 羽 太 長太郎 大洲 12
151 林   宗 良 北宇和 28
152 N23 菱 田 中 行 松山藩 04 松山中学校長心得。
153 兵 頑 莞 爾 西宇和 23○ 長崎税関
154 兵 頑 俊一郎 西宇和 28
155 兵 頭 新 一 北宇和 27
156 兵 頭 昌 吉 西宇和 29
157 廣 橋 治郎吉 喜多郡 19
158 藤 田 豊 造 新居郡 30
159 藤 谷 禮重郎 郡中 30
160 藤 野   潔 松山 19
161 古 谷 賢 洋 東宇和 26
162 不 破 多 門 大洲 21
163 保 木 惣三郎 東宇和 29
164 細 井 房 重 松山 13○◇ 第五十二銀行
165 堀   滋三郎 今治 22
166 掘   三 事 愛媛県 12
167 本 荘 一太郎 松山 23 ◇
168 牧 野 昇 次 松本 宇和郡 16○ 酒造業
159 政 尾 藤 吉 大洲 21
171 松 村 貞三郎 愛媛県 10
173 三 浦 小一郎 越智郡 21
174 水 口 啓太郎 伊予郡 15
175 宮 内 直 挙 松山 12○◇ 山陽鉄道
176 邑 井 保 固 村井 吉田 10○◇ 森村組紐育支店長
177 村 尾 則 光 岡部 宇和島 12
178 村 上 幸 平 新居郡 31
179 村 上 時次郎 越智郡 15
180 村 上 文太郎 松山 23 ◇ (常盤会)
181 元 吉 秀三郎 北宇和 14
184 森 田 恭 平 小松 24
185 薬 丸 大之丞 松山藩 02
186 安 川 通 照 喜多郡 29
187 矢 野 順一郎 野間郡 28
188 矢 野 荘三郎 西宇和 20
189 矢 野 恒太郎 今治 14○ 海軍主計総監
190 矢 野 照次郎 西条 25
191 矢 野  一 宇摩郡 30
192 矢 野 可 宗 玉川町 12○◇ 神戸新聞
193 N40 山 崎 忠 興 宇和島 08 伊予尋常中学校長
194 山 崎 程 者 松山 10
195 山 田 善四郎 新居郡 21
196 横 山 新次郎 松山 23
197 横 山 正 脩 松山 15
198 横 山 惣 次 新居郡 34
199 吉 田 甚三郎 宇摩郡 27
200 吉 田   正 野間郡 30
201 吉 田 晴太郎 阿部 越智郡 21○ 阿部合名(紡績)役員
202 吉 田 戊 實 松山 13
203 脇   道 譽 宇摩郡 25○ 大倉組
205 渡 邊  脩 北宇和 12○ 衆議院議員
206 渡 邊 綱 一 北宇和 22
207 渡 邊 雄 一 新居郡 22○ 銀座磯野商会

(注)「番号」はアイウエオ順、「N番号」は『入社帳』記載順、「入学年」欄の○印は塾員(卒業生)、◇印は「松山中学卒業生名簿」記載者、「特記事」欄の(常盤会)は松山藩久松家が寄贈した東京の学生寮居住者である。舎監を内藤鳴雪が務めた当時正岡子規も入居していた。「入学年」の明治年号は自明であり省略した。
藩校の系譜を持つ「宇和島東高校」「西条中学卒業生(道前会)名簿」「今治中学卒業生(蛍雪会)名簿」はじめ藩校の系譜を持つ大洲・吉田・小松各高校の卒業生名簿や沿革史を確認したが、今回リストの特記事項記載者以外は全く「不詳」である。各地「三田会」ならびに該当校の卒業生にはぜひ大先輩の「発掘」をお願いしておきたい。

○名簿の利用に当たって
@本名簿は『慶応義塾入社帳(全5巻)』(昭和六十一年三月十六日 福沢研究センター編集 慶応義塾刊行【復刻版】)を基にした。記載者数は凡そ二万名に及び今回一人一人確認作業をしたが膨大な資料であり今後追加が出る可能性が残る。
昭和五十八年三月三十一日発行の『慶応義塾入社帳 第四索引』では愛媛県二一八名の名前が記載されているが、うち十一名が誤記、四名が重複し、欠落者が四名いる。最終的に二〇七名とした。研究或いは資料として詳細が必要であれば照会願います。
A愛媛県出身の慶応義塾卒業生(塾員)は『慶応義塾学報』(明治三十年三月七日発行)記載の三十九名については本名簿の「入学欄」に○印を付記した。
B文久三年入社の「小林小太郎」から明治八年入学の国府寺則順までの四十三名についてはN1からN43の番号を付記している。『伊予史談』(三三七号)に発表した論文記載の登録番号である。
B『慶応義塾塾員名簿』追加記載者四名明細
NO30、115、121は『入社帳』には記載されているが「索引」未記載である。
NO95は『入社帳』では香川県出身であるが『慶応義塾出身者名流列伝』(明治四十二年六月発行 三田商業研究会編纂)で「宇摩郡豊岡村出生」を確認した。
C【慶応義塾入社帳】記載の牧野昇次と『慶応義塾学報』記載の松本昇次は同一人として取り扱う。卒業後養子縁組したと考えている。
4 おわりに

慶応義塾卒業生でも『慶応義塾入社帳』の存在をご存じない方が多いのではなかろうか。私事になるが平成10年に現役を退き郷里松山に帰省したが、縁あって「慶応義塾福沢研究センター」から現本を復刻した『慶応義塾入社帳』全五巻の恵贈を受け愛媛県下の慶応義塾卒業生の「発掘」と「顕彰」を進めるようにとの激励を受けた。まさに文久三年起『慶応義塾入社帳』筆頭記載の「文久三年春入門 松平隠岐守内 小林小太郎」のご縁であると感謝している。その後慶応義塾福沢研究センターで研究資料の提示を受け、毎年『連合三田会』出席の都度慶応義塾図書館で関連書籍を閲覧した。又愛媛県の近代史特に県政史については第一人者である伊予史談会の高須賀康生副会長の知遇を得え、愛媛県下の慶応出身者の研究を進めている。【小林小太郎】没後百年に当たる平成十六年七月「伊予史談会」で「慶応義塾[英学]入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」を発表し、史料で始めて確認した小林小太郎の出自を慶応義塾並びに国会図書館に報告した。
今回「愛媛三田会創立五十周年」を迎えるに当たり小林小太郎はじめ明治期の県下の慶応義塾の大先輩の在りし日の姿についての寄稿を依頼された。浅学非才でその任ではないのであるが、折角の機会であり、すでに発表した小論を中心に207名の先輩の名前を列挙して愛媛三田会各位の脳裏に先輩達の名前を留めていただきたいと考えた次第である。残念ながら氏名リストの特記事項欄の過半は空白である。是非この機会に愛媛三田会会員各位のご尽力で少しでも空白部分を埋めていただきたい。その努力が慶応義塾創立百五十周年と愛媛三田会創設五十周年への少なからざる寄与になると信じています。
参考文献は多いが紙数が尽きたので総て割愛させていただくことにした。関心ある方は下記の拙論に参考文献を掲載しているので確認いただければ幸甚である。
 @「松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜」(『明教』三一号)A「子規と演説〜演説の来歴〜」(『子規会誌』九二号)B「子規と小林小太郎〜伊予松山藩の英学徒たち〜」(『子規会誌』一〇〇号)C「『坂の上の雲』異聞」(『明教』三五号)D「慶応義塾[英学]入社第一号 伊予松山藩士 小林小太郎」(『伊予史談』三三八号)     以上
国立公文書館デジタルアーカイブ「小林小太郎」関連文書
[画像化ネット公開文書]

 @公文録・明治十四年・第二百九十五巻・明治十四年・公文録発着十月〜十二月太政官〜府県
  〔少書記官小林小太郎外一名島根県其他ヘ出発ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000142103

 A公文録・明治十五年・第二百七巻・官吏進退(文部省)
  〔少書記官小林小太郎昇任ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000147075

 B公文録・明治十五年・第二百十七巻・明治十五年一月・官吏雑件第二(文部省〜府県)
  〔少書記官小林小太郎外一名帰京ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000147502

 C公文録・明治十七年・第二百二十巻・明治十七年六月・官吏雑件(太政官〜府県)
  〔権大書記官小林小太郎橡木(ママ)外一県ヘ各自巡視トシテ出発ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000161202

 D公文録・明治十七年・第二百二十三巻・明治十七年八月・官吏雑件一(太政官〜農商務省)
  〔権大書記官小林小太郎橡木県(ママ)等ヨリ帰京ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000161591

 E叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十
  〔小林小太郎特旨叙位ノ件〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000331884

[無画像・公文書館本館公開文書]
 F書名 英学教授手伝並出役小林小太郎 明細短冊
  〔作成年月日 慶応2年12月30日〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000016417

 G書名 小林小太郎儀開成所英字教授伝並出役被仰付候旨致承知御礼一札
  〔差出:松平隠岐守勝成/宛名:井上河内守/宛名:稲葉美濃守/宛名:松平周防守/宛名:小笠原壱岐守〕
  〔作成年月日 慶応3年1月18日〕

   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000091170


 H書名 教育辞林
  〔著者:ヘンレ・キッドル(米)/著者:アレキサンドル・ジェースケーム(米)/訳者:文部省小林小太郎 〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000061329


 I書名 波氏教育学

  〔著者:ウィルレム・ペーン(米)/訳者:小林小太郎 〕
   https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000061392